ブログ一覧へ戻る
古代東アジア |2026-06-10

「匈奴」分裂の経緯のまとめ

匈奴は一時、前漢を圧迫するほど強大な勢力でしたが、しだいに内部抗争と前漢の圧力によって弱体化し、最終的には南と北に分裂しました。

その流れは、簡単にいうと次のようになります。

冒頓・老上・軍臣単于による強大化
→ 武帝による反攻
→ 単于位をめぐる内部抗争
→ 呼韓邪単于と郅支単于の対立
→ 後漢時代の南匈奴・北匈奴への分裂


1. 冒頓・老上・軍臣単于の時代

最初に匈奴を大きな遊牧国家にまとめたのが、ご存じの冒頓単于です。
冒頓単于は、東方の東胡や西方の月氏を破り、モンゴル高原を中心に強大な勢力を築きました。
さらに前200年、前漢の高祖劉邦を「白登山の戦い」で包囲して大きな衝撃を与えています。

その後に前漢は匈奴に対し、皇女を嫁がせたり(和蕃公主)、贈り物を送ったりする和親政策をとるようになります。次代の老上単于、軍臣単于にかけての時期、匈奴は前漢と対等、あるいは圧迫するほどの力を持ち全盛期を築きました。


武帝が匈奴への反抗を強めた

しかし、前漢の武帝の時代になると状況が変わります。
武帝は、伊稚斜(いちしゃ)単于時代の匈奴に対して積極的な軍事攻撃を行いました。ここで活躍したのが、著名な将軍「衛青」や「霍去病」です。
漢軍は匈奴をたびたび攻撃し、匈奴はオルドス地方や河西回廊方面で勢力を失っていきました。

この攻勢によって、匈奴は軍事的にも経済的にも打撃を受け、かつてのように前漢を一方的に圧迫することは困難となったのです。


単于をめぐる内部抗争が起きた

匈奴の弱体化をさらに進めたのが、単于位をめぐる内部抗争です。
匈奴では、単于の地位をめぐって一族内で争いが起こりました。特に前1世紀には、複数の単于が並び立つ混乱が起こり、これを「五単于の争い」と呼ぶことがあります。

この内乱期には、
呼韓邪単于(こかんやぜんう)、郅支単于(しつしぜんう)、握衍朐鞮単于(あくえんくていぜんう)
等の有力な単于が各地に現れました。
内乱の結果、前漢に服属する呼韓邪単于と、逆に従わない郅支単于の対立が中心となっていきます。


呼韓邪単于と郅支単于の対立

内部抗争の中で重要なのが、呼韓邪単于郅支単于の対立です。呼韓邪単于は、前漢に服属して支援を受ける道を選び、力を借りて自分の単于としての地位を保とうとしたのです。

一方、郅支単于は前漢に従わず、西方へ移りました。
郅支単于は中央アジアの康居方面へ移り、タラス川流域に拠点を築いたとされます。

この郅支単于の勢力は、説明上、「西匈奴」の始まりとされることがあります。
ただし「西匈奴」は明確な王朝名というより、呼韓邪単于側に対抗して西方へ移った匈奴勢力を指す呼び方です。

その後、郅支単于は前36年に、前漢の甘延寿と陳湯の遠征軍によって滅ぼされます。
この結果、呼韓邪単于側が優位となり、匈奴は一旦はまとまりを取り戻しますが、この時点で匈奴はかつてのような強大な統一勢力ではなくなっていました。

後漢時代に南匈奴と北匈奴へ分裂した

匈奴の決定的な分裂は、後漢初代・光武帝(劉秀)の時代に起こります。
1世紀半ば、匈奴は南匈奴と北匈奴に分かれました。

南匈奴側の中心となったのは「比」という人物です。単于号では、醢落尸逐鞮(かいらくしちくてい)単于と呼ばれます。比は後漢に服属して保護を受ける道を選びました。これが南匈奴です。

一方、後漢に従わなかったのが、蒲奴単于の率いる勢力でこちらが北匈奴となります。北匈奴はモンゴル高原方面に残り、独立を保とうとしたのです。

北匈奴は後漢の軍事攻撃や、東方から勢力を伸ばした鮮卑の圧力を受けて弱体化していきました。
一方、南匈奴は後漢に服属しながら、中国北方で存続しました。


分裂後の匈奴

南匈奴は後漢に服属しましたが、すぐに消滅せずに中国北方に残り、その後の時代にも影響を与えました。

特に西晋滅亡後の五胡十六国時代には、匈奴系勢力が中国北部で政権を建てます。
代表例が、劉淵による漢、のちの前趙につながる政権です。

一方、北匈奴はモンゴル高原での勢力を失い、一部は西方へ移動したと考えられています。
ただし、ヨーロッパに現れたフン人と匈奴を直接結びつける説はありますが、確実に証明されたものではありません。